社会人で大切なことは部活動のハンドボールで学んだ〜高校編〜

こんにちは、しゅんです。社会人になった今、振り返ると、仕事においてもプライベートにおいても、
部活動をやっていて本当に良かったな〜と心から思っています。

高校卒業したのはもう15年前になりますが、引退した時に3年間の経験を文章にしていたので、その時の記録をもとに書いています。

今、コロナでなかなか部活をやりたくても出来ない、という方も多いと思います。
自分の経験が少しでも誰かのヒントになればと思い、書かせていただきました。

少し長いですが、部活って将来何の役に立つの?プロにならければ意味ないのでは?
と思っている方など、ぜひ読んで頂けたら嬉しいです。

旭丘高校ハンドボール部 


僕たちのチームは高校3年の春、最後の大会で愛知県で約100チーム中3位になり、東海大会に出場することができた。これは、旭丘では創部40年を遡ってもいつ出場できたか分からないくらい快挙と言われた。そのチームでのキャプテンの経験は高校時代の宝物になった。

中学校は、地区予選の1回戦負けだった自分。つまり、愛知県でほぼ最弱。そんな自分は、ハンドボールが大好きで、
高校こそ成果を残したい、そんな想いでハンドボール部に入った。

先輩の怪我で、試合に出たがまったく通用しなかった1年生前半 

高校の合格発表の日に、待ちきれずその日に部活に見学に行った。そこにはハンドボール推薦で合格し、すでに練習を始めていた4人の新入生の同期がいた。

この4人は、中学はハンドボールの名門のレギュラーで、先輩と間違えるほど上手かった。中学は地区予選一回戦負けの自分と、県大会で上位の成績を持つ同期は、スタート地点があまりにも違った。

そして、中学時代に野球部だったメンバーが1人仲間に入ってくれ、6人でスタートした。ハンドボールは7人でやるスポーツだが、旭丘ハンド部は厳しくて有名だったので、入部する人は少なく、常に人数不足だった。

入部してすぐ、春の大会で3年生が引退した。この大会で、すでに推薦で入学した同期は、1年生なのに4人中3人がレギュラーとして試合に出ていた。県大会には出れたものの1回戦で負け、1、2年生だけのチームになった。

1年生の夏、先輩のケガで僕が試合に出場した。市内県立大会という、名古屋の県立大学だけが戦う小規模な大会だ。順調に勝ち上がり、準決勝で松蔭高校と対戦した。

真夏の外の試合で、とても暑くて僕は完全にバテてい た。ポジションはセンター(司令塔)として試合に出してもらったのに、何もできず、チャンスも全部潰していた。完全に足を引っ張っていた。ベンチには先輩もいたのに声も出さな かった。 

監督は手術のため東京にいたので、そんな自分に交代を告げる人はいなかった。 


勝たなければいけない試合だったのに、結局1点差で負けた。誰からみても、自分のせいだった。 

先輩から試合後に、「おまえが○○先輩(春に引退したセンターの先輩)だったら勝っていたな。」 

といわれた。すごく悔しかったけど、まさにその通りだった。 

この時、「もうこんな想いはしたくない」と、自分の中の意識が変わった瞬間だった。 

悔しさをバネに猛特訓するが、、、

夏休みは、最後に10日間のオフがあるが、1人で学校に来て、ひたすら無人のゴールにシュートを打ち続けた。
オフ明けの練習も、負けた試合をいつも思い出して自分に絶対甘くならないように意識した。
試合や練習中には、上手い人のプレーを真剣に見るように徹底した。 

そんな少しずつの努力が形になり、自分が上手くなっていくことを感じた。シュートには少し自信が持てるようになった。 

10月になり、秋の名北予選(名古屋市の北半分の規模の地区予選)が近づいてきた。
試合の1週間前の日曜日、練習はオフだったが、少しでも練習したくて中学校に練習に行った。 

しかし、なんとそこでボールを投げた時に利き肩の右肩を脱臼してしまった。 

大事な大会にはもちろん間に合わなかった。そして、僕のポジションに控え選手はいなくて急きょ別のポジションの先輩に入ってもらうことになった。チームには半端なく迷惑をかけてしまった。 

試合には出られなかったが、チームはこの大会で県大会出場を決めた。
夏は予選で敗退したので、すごく嬉しかった。 

1月の県大会までには右肩は治り、全力で投げられるようになった。
県大会はまたレギュラーになり、中学校が弱かった僕は、県大会でプレーするのは初めての体験だった。 

この大会でくじ運が有り得ないほど良くて、夏に予選敗退だった旭丘は、
100チーム以上ある中で、愛知県で4位になった。すごく幸運だった。

ただ、ベスト4になると上位4チームでリーグ戦を行うが、他の3チームとは、明らかに差があり、
3試合ともこてんぱんにされた。 

こうして4位で冬の県大会が終わった。 

2年生になる前、医者から言われた絶望的な一言

春の大会に向けて練習をしていた2月だった。僕は練習中、先輩をディフェンスした時に再び肩を脱臼してしまった。 

スポーツで有名な井戸田整形外科に行ったが、院長に絶望的な一言を言われた。 

「肩の関節の骨が欠けていて、もう一生全力で投げられるようにはならないだろう。」 

この時は本当に落ち込んだ。ひたすら練習してやっと球が速くなってきてこれから、という時だったのに。
それからは性格も少し暗くなり、みんなが思いっきりシュートを打っている姿を見るだけで辛かった。 

先生に相談したら手術して、半年以上リハビリをして8割の力で投げられるようにするか、左利きに転向するしかない
と言われた。

手術すると、1番全国に行ける可能性の高い冬の県大会に出られない、ということで左利きに転向することを決意した。
リハビリ中は走ることでさえ肩に響くので、一人別メニューだった。 

自分で組んだ練習メニューは、毎日腹筋500回、背筋500回、片足スクワット左右100回ずつ
そしてその他の時間はすべて左の投げ込み、壁当てを続けた。小さいころから文字、箸、ボールなど、すべて右利きだった自分にとって左で投げるのは難しかった。 

トレーニングもきつかったが、何よりもみんなと一緒に練習できないのが辛かった。

ただ、悪いことばかりではなく「思い通りに出来ないことって、こんなに辛いんだ」ということに気付けたのはすごく大きかった。中学時代にキャプテンだった自分は、「なんで出来ないの?」という態度でチームメンバーに接していたけど、
それがいかに相手への配慮が足りなかったかに、ようやく気付くことができた。
 

練習に復帰してから約1カ月半で、何とか左で投げられるようになった。 

初めて練習試合で左投げでシュートを決めた時は、いままでの辛さとか全部吹き飛んでしまうくらい嬉しかった。
みんなも僕が決めるとすごく喜んでくれた。 

しかし、シュートの確率は低かった。みんなは自分がシュートを外しても利き腕じゃないから仕方ない、という風に思ってくれていた。 

2年生になり、春のインターハイ予選が近づいてきた。 

予選の少し前、岐阜で練習試合があった。僕は簡単なシュートを外した。みんなはいつものように自分に何も言わなかった。 

しかし、監督に怒られた。

「おまえは心の中で自分に言い訳を作っている。」と言われた。 

怒られた時、ハッとした。まさに監督の言う通りだった。利き腕じゃないんだから、これくらいしかできないだろう、と無意識のうちに自分の限界を決めていた。 

ここで怒られなかったら絶対に自分の中の甘さに気づいていなかったと思う。 

春の県大会は、前の様なラッキーは起きず、2回戦で負けて3年生の先輩が引退した。

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