【社会人で大切なことは部活動で学んだ】監督もいない大学ハンドボール部が全国大会に出場した話

こんにちは、しゅんと申します。

今日は昔話をします。

お時間がある方は、高校編からお付き合いくださいませ。

この記事の内容を簡単に

まず、この記事を書こうと思ったきっかけについて。

今、僕は社会人10年目で、仕事で約10人の営業組織のマネージャーをしています。

そこで、みんながどうやったらイキイキしながら働けるか?ということをいつも考えています。

振り返ってみると僕のチームワークについての原体験は、中学、高校、大学の部活動でのキャプテンの経験にあり、その経験が今仕事でめちゃくちゃ活きています。

中学まで上から物を言う鬼キャプテン(完全に黒歴史)と呼ばれていた自分は、高校の頃に利き肩を脱臼してボールが投げられなくなる辛さを知りました。

プレーでチームを引っ張れなくなり、チームがどうやったら強くなるか?を必死で考えるようになります。

部活ではチームワークってすごい一人では到底できないことが実現出来る。そんな経験をしました。

特に大学では、推薦で選手集めもしていない、監督もいない国立大学のハンドボール部が、

たくさんの運もあり、全日本インカレに出場することとなりました。

ここ20年で名大ハンド部がインカレに出場出来たのはこの1度だけなので、

かなり珍しい出来事だったと思います。

もちろん日本一を本気で目指すレベルでやっているような方からするとレベルは高くない話だと思います。

ただ監督がいない中で、どうすればチームの力が発揮されるかを必死で考えた4年間の話は、

きっと誰かの役に立つと信じて書かせていただきます。

引退してすぐに文章にまとめていたので、かなり時間が経ってしまいましたが今回記事にしました。

それでは、今から昔話をします。

長くなりますが、お時間ある方はお付き合いください。

名古屋大学ハンドボール部での経験

僕は浪人して名古屋大学に入学した。

ハンドボール部に入り、1年の最初から4年の11月までハンドボールを続けた。

2年生の秋から3年生の秋まではキャプテンをやった。

 

東海地区の大学生のハンドボールは、1部リーグから4部リーグまである。

1部、2部は8チーム、3部と4部は6チームずつ。1年に2回リーグ戦がある。 

入部して最初の1年の春のリーグ戦は2部の4位だったが、

2年の春に1部に昇格し、2年の秋に2部に降格し、

3年の秋にまた1部に昇格し、最後の4年生の秋のリーグ戦では1部の4位になった。

そして名大ハンド部としては9年ぶりに、入部した当初からの夢だった全日本インカレにも出場することができた。(2022年現在、卒業して10年以上経つけど、2010年以来まだインカレ出場はなし)

 

3年半ハンドボールを続けて、正直自分が驚くほど大学で成長したか、と言われたら自信をもってはい、とは言えない。

ただ、チームとしては驚くほど成長できたと思っています。

ハンド部は練習が月、水、金、土曜日の週4日。

試合期になると日曜に試合があるため、週5日部活がある。

それを説明すると、ハンドボール経験者でも新入生の多くはサークルが良い、と言って入ってくれなかった。

 

1年間の主な行事は 

4月 春のリーグ戦 

6月 名阪戦(名古屋大学と大阪大学の交流戦) 

7月 東国体(東海地区の国公立大学の大会) 

8月 八大戦(北大、東北大、東大、名大、京大、神大、阪大、九大のリーグ戦) 

9月 秋のリーグ戦 

また、名大ハンド部は就活などのために3年生の秋で引退する、という習慣があった。

 

そのため、名大ハンド部はいつも人数が少なかった。

1部のチームは平均25人くらい、多いチームは40人以上。

名大はいつも秋リーグで15人くらい、そして春リーグは10人前後だった。

そして上位チームには必ずいる監督も名大にはいなかった。 

入部した時は正直部活にがっかりしてしまった。 

先輩が遅刻したり、来なかったりすることもよくあった。

自分はそういう状況がとても嫌いだった。

練習はみんなあまり声も出さず、一言で言うと意識が低かった。 

試合はもちろん本気なんだけど、誰かが得点を決めてもクールで、

あまり盛り上がるチームではなかった。 ただ、先輩はみんな上手かった。

僕は大学入って練習に2回参加しただけで、その後最初の1年生の春のリーグ戦で

試合に使ってもらった。

そして、なんとデビュー戦でいきなりクセになっていた右肩を脱臼してしまった。 

救急車で運ばれた。

病院に着いたけど肩がなかなかはまらなくて、すごく痛い思いをした。 

大学生は体格がすごくて、脱臼グセ&浪人して衰えた自分の筋力では到底ついていけなかった。

 

「やっぱり大学ではハンドボール続けるのは無理かな」と思った。 

辞めることを伝えようか迷っている時だった。

まだ知り合ったばかりの先輩に「またリハビリして戻ってくるの待ってるからね」と言ってもらった。

その言葉をもらって、やっぱりまた頑張ろう、と決めた。

高校の頃から、「どんな時にみんなが力を出せるのかな」

ということを深く考えるようになった。 

試合において、雰囲気は多少の実力差くらい簡単にひっくり返してしまうほど大きな力を持つと思う。 

雰囲気が悪いと何もかもうまくいかず、ミスしたチームメイトを責める。

それを見て相手チームも勢いづく。

味方は下を向く。顔が暗い。すぐにバテる。審判にも文句を言う。 

逆に雰囲気が良い時は、実力以上のプレーができる。

みんなの顔が明るい。その分相手チームがひるむ。

点を決められてもすぐ切り替えられる。

ミスが起こっても誰もイライラしない。

ミスを誰かがカバーしようとする。

ミスジャッジがあっても仕方ないと思える。 

簡単にいえば、辛そうにプレーするか、活き活きとしてプレーするかの違いだと思う。 

ではどうやったら雰囲気の良い時間帯を長くできるか? 

一番大切なことは、些細なことでみんなが喜べるようになることだと思う。

 

自分はケガで練習に参加できない分、

とにかく練習の中でみんなが喜べる状況を作ろうとした。

それぞれのプレーヤーのいい所を探した。

お世辞で気を良くする人はいないから、

本当に感じたことを些細なことでも言葉にするように心がけた。 

ゴールポストに当たってシュートが入ったら「ナイスコース!」とか、

「今のシュートめちゃジャンプしてましたよ!」とか。 

こんな小さいことも大切だと思って、復帰してからも、

引退するまでずっとみんなのいい所を探し、それを言葉にすることを続けた。 

リハビリも順調に進み、1年生の8月の京都大学で行われた八大戦からチームに復帰することになった。

 

八大戦とは、毎年8月に行われる旧七帝大

(東京大、京都大、大阪大、東北大、九州大、北海道大、名古屋大)と神戸大が

総当たりのリーグ戦を行う大会である。 

試合に行くと、貴重品を個人のカバンから盗まれないように、

まとめて貴重品袋に入れて管理する。

しかし、事件が起こる。

なんと、京都大学の体育館でみんなの貴重品が入った貴重品袋を盗まれてしまった。 

被害額はみんなの財布、時計、ケータイなどで40万円以上。 

チームとして貴重品を誰が管理するか、は決まっていなかったけど、確実に自分達1年生の責任だった。

これは部活生活の中で一番の事件だったしすごく責任を感じた。

ただ、終わったことは取り返せないから、それからの貴重品管理を徹底して、二度と繰り返さないようにした。 

1年生の秋リーグが始まった。

センター(司令塔)として試合に出させてもらっていたが、

ロングシュートを打てない自分は完全にチームの足を引っ張っていた。 

そして僕は秋のリーグ戦の中盤でまた右肩を脱臼した。 

父にはもうハンドは辞めるべきだ、と強く言われた。

今まで何かを辞めろとは言われたことがなかったので、驚いた。

 

とにかく、今のままではハンドボールを続けることもできないし、

やめるにしても日常生活に支障が出る。

そう思った僕は、1年生の1月に肩の手術することを決めた。

入院中はたくさんの人がお見舞いに来てくれた。

名大ハンド部のみんなからアルバムを貰って、

写真に「早く帰ってこいよ!」ってメッセージが書いてあったり、

高校の部活のメンバーが全員お見舞いに来てくれたり、

学部の友達が来てくれたり。

成人式を休んで入院をしていた僕はみんなにすごく励まされた。 

それからはとにかくリハビリの日々だった。 

そして、高校の時、利き腕が使えなくなり左利きに転向したが、

この手術の後、リハビリで半年かけて利き腕の右でも投げられるようになり、

かなり珍しい両利きプレイヤーとして復帰する。

2年生になり、1年生が入ってきた。 

1年はとにかく元気で、めちゃくちゃ上手かった。 

全国大会を経験しているメンバーも何人かいた。

ただ、練習に対しての本気度は正直、伸びしろだらけだった。

 1年生の力もあって、自分が2年生の春リーグで2部で2位になった。

そして入替戦で1部7位の名古屋文理大学に勝ち、

ずっと目標だった1 部に昇格することが出来た。

自分はリハビリ中で春リーグには出られなかった。

でも試合はベンチから必死で応援した。昇格が決まった瞬間はめちゃくちゃ嬉しかった。

 

春リーグが終わり、5月の終わりから練習に復帰した。 

正直、自分は先輩が引退するまでずっと試合で力が出せないことを悩んでいた。

自分のポジションは右サイド。キャプテンの先輩と同じポジションだった。 

自分は練習だと調子がいい。そこで試合にレギュラーとして使ってもらっていた。

でも、試合になるとはっきり言って全然だめだった。

練習で入るシュートが全く入らない。試合になるといつもプレッシャーに負けていた。 

「キャプテンの先輩代わりに出してもらってるから、何としても結果を出さないと」

そう思えば思うほど逆効果だった。 

8月の八大戦は特にひどくて、チームは優勝したけど、

自分はあまりにプレーが酷くて、試合が終わった後悔しくて泣いてしまったこともあった。

自分がこんなに情けなかったのに、キャプテンの先輩は

「きっと試合で力が出せないのはリハビリでチームの練習ができてなかったし、みんなと合わせる時間が足りないんだ」

と言って試合形式の練習でもいつも自分をAチームに入れて練習させてくれた。

申し訳なさすぎて言葉にならなかったけど、今でもこの先輩は出逢ってきた先輩の中で一番尊敬している。

 

調子を上げられないまま、秋のリーグ戦に臨んだ。

初めて体験する1部リーグは、体格も技術も正直別格だった。(筋肉だるましかいない)

実力差は歴然。

 自分も、調子が上がらないままで、いつも得点は1~3点。

一番点を取ったのが愛教大との試合で、それでも4点だった。 

自分が一番忘れられないのがリーグ終盤の岐阜聖徳との試合だった。

勝てば7位。引き分け、もしくは負ければ最下位の8位という試合だった。

試合は接戦で、同点でラスト2秒、自分のシュートチャンスが来た。

 しかし、僕は絶対決めなければいけないシュートを外した。 

結果は引き分け。

そして、5敗2分で1部の最下位となり、2部1位との入替戦に出ることになった。

 

そして、2年生の秋、名大は入替戦で名古屋文理大学に負け、2部に降格した。

これが3年生の先輩の引退試合だった。 

この時の悔しさは言葉にできないくらいだった。

これで先輩がいなくなると思うと、すごく寂しかった。

あの試合で自分がシュートを決めていれば、入替戦が2部の2位とできたのに、とかずーっと考えていた。 

でも、終わったことはもう戻らないから、

自分達が結果を残すことだけが先輩達に対して出来ることだと思うことにした。 

自分の代が始まり、中学、高校に引き続き大学でもキャプテンをやらせてもらうことになった。 

この時の人数は2年生が僕含めて2人、

1年生7人でプレーヤーは9人(試合は1チーム7人)

そしてマネージャーが2人で、超ギリギリの人数だった。 

自分が目指していたチームは、簡潔に言うと

「周りが応援したくなる明るいチーム、そして試合で実力を超えた力を発揮できるチーム」だった。 

自分達の代が始まった時も確かにみんな上手かった。 

エースのYは高校の時愛知県代表で、シュートがめちゃ速い(東海地区で1,2を争うくらい)

キーパーのMは中学の頃スター選手で、全国上位の高校からスカウトされた。

センターのTは中学校で愛知県代表。 

一部のチームは全国の常連ばかりで、個人能力では負けているけど、

二部の中では個人能力は高かったと思う。 

それでも、試合になると波があった。 

上手くいくときはすごい力を発揮するけど、

誰かが2回連続でミスしたり、シュートが入らなかったりすると

みんながイライラして、雰囲気が悪くなる。

一言でいうともろいチームだったと思う。 

ここが変われば、すごいチームになるんじゃないかな、と思っていた。

 

ただ、冬の練習はモチベーションを保つのが難しかった。

全員集まっても9人しかいないし、授業の関係で開始時の人数が4人になることもよくあった。

しかも、キーパーが1人だけだったので、キーパーが授業が5限まである日は練習の後半までキーパーがいない。

どこの弱小チームだ、とつっこみたくなるけど、キーパーなしでシュート練習をしていた。

練習メニューを考えるのが大変だった。

走ったり、シュートをひたすら打ち続けたり、楽しいというよりはキツい練習ばかりだった。

 

キャプテンとして意識したことは、まず名大はこれまで、

あまり好かれているチームではなかったので、他のチームと仲良くしようと思った。 

また、練習で意識したのは、 

・いつも目的を持ち、試合を意識すること。 

・最初のパスはただの肩慣らしじゃなくて、いつも相手の胸をめがけて投げること。 

・パス練で一度もボールを落とさないこと。 

・練習中もコートの外にボールを出さないこと。 

・ルーズボールには飛びつくこと。 

・調子が悪い日も、試合だと思ってその日のうちに修正できるようにすること。 

・上手くいかなくても暗い顔をしないこと。 

・思ったことはためたままにしないで口に出すこと。 

・人のプレーを真剣に観察すること。 

すごく基礎的で、些細なことかもしれない。

でも練習を100~200回繰り返せば絶対に大きな差になると考えていた。

 

そして試合では、 

・とにかく明るい雰囲気で試合をすること。 

・一人がシュートを決めるとベンチも合わせてチーム全員で喜ぶこと。 

・ミスした人に声をかけ、その人の気持ちを楽にすること。 

・全員で声を出すこと。 

・悪い流れがくることも想定しておくこと。 

・自分がパスカットされたら、絶対に全力で戻ること。 

・審判に文句を言わないこと。 

練習試合では、ダメなプレーについて怒ることはたくさんあったが、

試合では終わったことは切り替えて、一つ一つのプレーを褒めることを中心にした。 

また、実際に審判をやってみるとわかるけど、笛を吹くのはすごく難しい。

正しい笛を吹いて当たり前、間違った時は文句を言われる

こんな大変な仕事はないと思う。

審判がミスをしない試合なんてない。

そこでチームがイライラして雰囲気が悪くなるなんてもったいない。

だから、ミスジャッジも試合の一部だと考えて、気にしないように全員で意識した。

実際、その方が笛も結果的に味方についてくれた。 

そしてもう一つ、マネージャーへの感謝を忘れないこと。

ドリンクを作ってもらったり、

テープを用意してもらったりすることを当たり前だと思ってはいけない。

いつも練習がスムーズに出来るように準備してくれて、

日々練習で使っている体育館の予約や、

会計など事務的な仕事もたくさんこなしてもらってることに感謝の気持ちを持つこと。 

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3年生になり、春のリーグ戦が始まった。 

5勝2分で2部の2位となり、入替戦に出ることができたが、

入替戦で3点差で岐阜聖徳に負けてしまった。

練習試合ではほとんど負けたことのない相手だったので、ショックが大きかった。 

何がいけなかったのか、必死で考えた。 

僕の失敗は、

みんなに自分を理解してもらうことばかり考えて、みんなを理解しようとしていなかったことだったと思う。 

高校である程度の結果が出たからと言って、

やり方をそのまま名大に持ち込もうとしていた。

正直、一個下の学年がめちゃくちゃうまくて、ナメられないように少し無理してたかもしれない。

自分は怒ることも多かったし、最悪なことにモノに当たってしまったこともあった。

そして、みんなどこか自分のことを怖がっていた部分もあったと思う。

更に、自分の思い通りにならないことだらけで元気のない時が多かった。 

そんな状態で結果は出るわけなかったし、

そんなキャプテンには誰もついてこなかった。 

それから考え方を変えた。

 もっとみんなのやり方を尊重しよう。

そうすると、自分だけが正解じゃなくて、みんな正しいという当たり前のことに気付くことができた。

キャプテンとして自分が言うのは最低限のことでいい。

あと、伝えたいことがあったら、言うよりも自分がやればいい

チームの声が少なかったら、怒るのではなく自分が率先して声を出そう。

試合でみんなの足が止まってきたら自分がいっぱい走ろう。

そうした方が伝わると思って取り組んだ。 

自分がみんなを理解しようとするようにしてから、

みんながイキイキと部活に取り組んで、みんなの実力もすごく伸びた。

更に自分もすごく気が楽になって、今までよりもイキイキと部活に取り組むことができた。 

この時チームが不振だったのは、はっきり言って自分の責任だった。

考え方を変えてからチーム状態がどんどん良くなっていった。 

夏の八大戦は全勝で優勝し、3年生の秋のリーグも2部優勝。

そして入替戦も、春に3点差で負けた岐阜聖徳に10点差くらいで勝った。

やっと1年ぶりに1部昇格。

チームも良かったし、自分も調子が良くなった。

個人賞で八大戦ではベスト7、そして秋のリーグ戦ではMVPを受賞した。

 

学連の委員長から、

「君は実力では決してチーム一ではないけど、チームを良くしようとする姿勢が素晴らしいから、MVPに選んだ」

と言って頂いた。

実力では後輩に適わないことは誰より自分が分かっていたので、

その言葉は素直に嬉しかった。

 

毎年名大のハンド部は就活の関係もあって、

3年生の秋リーグで引退する習慣があった。

自分も、欲を言えばキリがないけど、最低限の仕事はしたと思い、引退しようと思っていた。 

入替戦が終わって、会場から帰る準備をしているとエースとサイドの後輩が近づいてきて、 

「お願いします。佐々木さん、4年の春まで部活続けてください。」 

と頼みに来た。 

一個下の学年はめちゃくちゃ上手かったから、

早く自分達の代でやりたいんだとばかり思っていた。

そして、自分はいつも厳しいし、みんなに好かれてないと思っていた。 

だから、その時すごく、すごく驚いた。

そして、そんなに必要としてくれるなら是非続けようと決めた。

この時辞めてたら、自分はどれだけ後悔してたか分からない。

二人が引きとめてくれた事には今もすごく感謝している。 

キャプテンは例年通り後輩に引き継ぎ、

自分はプレーヤーとして続けることになった。 

新キャプテンは、

「佐々木さんには、キャプテンを引き継いでも、今まで通りキャプテンのつもりでやって欲しい」

と言ってくれた。 

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冬が終わり、4年生になった。 

春リーグは1部で戦うことが出来た。

やっぱり1部はすごく強くて、結果は1勝6敗。

正直、チーム状態もこの時あまり良くなかった。結果は1部8チーム中7位だった。

そして2部リーグとの入替戦に出場。

入替戦は愛知学院と戦った。

 

この試合、名大の内容がすごく悪かった。

何人か調子悪いメンバーがいて、向こうのキーパーも調子が良くて、

これでもか、というくらいシュートが入らなかった。 

前半終わって10対14。

4点ビハインド。負けたら2部に降格。 

後半が始まった。

なんとここで交代メンバーが大活躍。

試合で出たことのない正サイドに入った後輩が、

シュートを決めまくる。少しずつ点差は縮まっていった。 

シーソーゲームで、ラスト40秒で相手に決められて23対24。

しかし、すぐにエースがアウトフェイントから決めて24対24。

ラスト16秒で相手のオフェンスでタイムアウト。 

ここで決められたら2部降格。 

何としても守らなきゃいけない場面。

試合再開。

何回かのパス回しから相手がロングシュートを打つ。

こちらのキーパーが完全に足元に止めた。

愛知学院は完全に延長戦だと思いこみ戻らなかった。

時計を見たら試合時間は残り6秒。

これはまだ間に合う。 

そう思った瞬間走り出していた。

キーパーから自分へ最高のパスが来た。

愛学も慌てて戻る。

ラスト2秒でシュート。

2年生の秋リーグはラスト2秒で外したけど、今度は決めた。

 

25対24。大逆転。

超ギリギリで1部残留。

これは今までで自分の一番思い出に残るゴールだった。 

そして、1部で7チームは西日本インカレ(全国大会の半分の規模)に出場できるので、

その最後の出場権をかけて愛教大と決定戦だった。

この日はダブルヘッダー。 

そこでは、自分の調子は最悪だった。

なんとシュートは4本打って0点

しかし、逆に入替戦で調子悪かったメンバーが調子を取り戻し、勝つことができた。 

東海地区の出場大学7チーム中7番手で西日本インカレ出場。

これは自分が入部して初めての出来事だった。

 ここから、チーム状態がさらに良くなっていった。 

西日本インカレは岡山県で行われた。

この大会では、出場チームが32チームでそのうち12チームがインカレ(全国大会)に出場できる。 

予選リーグで名大は、

関西学院(関西1部4位)、鹿児島(九州1部)、立命館(関西2部1位)と試合をした。

完全に格上の関西学院に、すごくいい試合をした。

頼れるサイドのSとTが特に絶好調で、

一点差で負けてたけどラスト5秒くらいにエースが強烈なステップシュートを決めて引き分け。

そして残り2試合は勝利。

2勝1分でグループ2位(関西学院に得失点差で負けた)だった。 

グループ1位はインカレ出場決定で、決勝トーナメントに進む。

グループ2位は8チーム中4チームがインカレに出場できるため、

インカレ決定戦に進む。

グループ3位、4位は予選敗退。 

グループ2位は、かなりの強豪揃いだった。

関西1部3位の同志社、東海1部4位の大同もいた。

そして、対戦相手はくじ引きで決まる。

キャプテンがひいた対戦相手は、京都大学だった。関西2部4位。

このくじ運は奇跡だった。確実に一番やりやすい相手だった。 

インカレ決定戦は入部してから今までで一番盛り上がった試合だった。

試合が始まって驚いた。

同じ東海地区で1部上位の中部大学や、大同大学が必死に名大の応援をしてくれた。

誰かがシュートを決めたらガッツポーズを求めてくれたり、

メガホンで応援してくれた。

いつの間にか周りのチームが応援してくれるチームになっていて、本当に感動した。

この試合は異常に盛り上がった。

 

試合中は夢中だったので、あまり覚えていない。

終わってみると結果は41-26で勝利。

この瞬間、ずっと夢だったインカレ出場が決まった。 

この大会で、名大の雰囲気は本当に良かったと思う。

結局一回引き分けただけで、負けた試合はなかった。

 

Twitterで知らない人が試合の解説をして、

名大の応援をしてくれた。

知らない人からメッセージが来て、

「名大の試合見てて名大チームが好きになりました」

とメッセージをもらったりした。

東海地区の他のチームは、ぎりぎりで西日本インカレに出場できた名大がインカレに行くことにすごく驚いていた。 

そのままの勢いで、秋のリーグ戦が始まった。

自分は院試でしばらく部活の休みをもらっていたので、

リーグ後半からチームに復帰した。

最後のリーグでは、

なんと1年生の頃には全く歯が立たなかった大同、そして名城に勝つことが出来た。 

そして何年もずっと1部の上位4チームは、

中京、名城、中部、大同という私立の強豪だったが、

最後にその壁を崩すことができた。

最終成績は1部8チーム中4位。 

更にこの大会で東海地区のベスト7にエースの後輩が選ばれた。

本当に快挙。自分の表彰よりよっぽど嬉しかった。

そして最後の大会のインカレは大阪で開かれた。 

初戦、何と相手はインカレ第1シード、

一番強い関東1部リーグ優勝の日本大学

まさにスラダンの山王高校。

前半の15分くらいまではいい試合をしていたが、

徐々に日大の実力を見せつけられた。 

漫画のような展開は起こらず、結果は22対32で負け。

やっぱり王者は強かった。これで引退。 

試合後にチームで日大の監督に挨拶に行くと、 

「佐々木君、4年間お疲れ様。」 

と言って、握手を求められた。

パンフレットを見て、4年生が自分一人だったから、覚えてくれていたようだった。

本当に感動した。そしてこの時、ああ、これで引退なんだなって実感がわいた。 

終わった後も日大の監督に、

「名大はすごくいいチームで、関東の1部でもやっていける。」

と言って頂いた。

お世辞だとは思うけど、すごく嬉しかった。 

これで中学から続いた現役生活10年が終わった。

そして自分と一緒に、3年生も全員引退した。 

この3年半で色々なことを学んだ。

チームの力を引き出す難しさ、そしてチームが一つになった時の力の大きさ。

雰囲気の大切さ。

個人個人では絶対にかなわない相手でも、チームなら勝てるかもしれない

それがチームスポーツの面白さだと思う。

 

割といいことばかり書いたかもだけど、

自分が最高のキャプテンだったというつもりは全くない。

インカレに連れて行ってくれたキャプテンは自分ではなくて、後輩のTだということは事実。 

自分は良かったこともあるけど、失敗の方が多かった。

最初の頃はみんなに怒ってばかりだったし、

みんなに気を遣わせてた。特に、唯一同学年で、副キャプテンには辛く当ってしまうことが多かった。 

そして、最後まで自分の実力不足に悩まされた。

最初はみんなを引っ張っていたはずなのに、

みんなの成長が凄過ぎて、最後の方はみんなに引っ張られていた。 

ディフェンスと速攻に関してはおそらくチームに貢献できていたと思う。

でも、オフェンスは違う。

サイドシュートが決まればチームは楽に点が取れるけど、

自分のシュート率はお世辞にも良いとは言えなかった。

正直、自分がもっと決めれば、他のプレーヤーの負担も減るし、

本当にどこからでも点の取れるチームになっていたと思う。 

ただどんなにうまくいかなくても、

4年間絶対に「利き腕じゃないからできない。」という言い訳だけはしないと決めていた。

高校の頃は、

「あいつは右利きだけど左でシュートを打っているから多少シュートが入らなくても仕方ない。」

と思われていた。それが悔しかった。 

でも大学では違った。

シュートを外したら後輩に怒られることもあった

でもその時、自分の左のシュートをみんなと同じ土台で見てくれたということを感じた。

だから、本当に嬉しかった。 

自分が中学、高校、大学でキャプテンをやって、人をまとめる際に大切だと感じたことがある。 

第一にみんなに平等に接すること。 

これは絶対に大切。

もちろん人間には好き嫌いがあるし、合わない人もいると思うけど、それを部活の時間に出すのは絶対にやめた方がいいと思う。

上手い人だけに優しくしても、優しくされた方も良く思わないし、絶対に頼られるようにはならない。

自分は、みんなに平等に接すると言ってもらうことがあるけど、

怪我をして左の練習をしていた時に、本気で試合に出られない悔しさ、

うまくいかない悔しさを味わっていることが大きいと思う。 

二つ目は、必死になること。 

必死さは必ず周りに伝わるし、いい意味で伝染する。

キャプテンはみんなに見られている。

だから、絶対に手を抜かない。自分の譲れないことは厳しく言う。

三つ目に、人を変えられる、と思わないこと。 

正直、中学や高校の最初の頃などは自分はチームを変えられると思っていた。 

でも、どこかの本で読んだけど、例えば今日から毎日ランニングをする、

とかダイエットをする、と決めて継続して実行できる人はごくわずかしかいない。

それほど自分自身を変えることも難しいのに、まして他の人を変えられる、と思うこと自体が間違いだと思う。

 

キャプテンにできることは、「みんなが本気になりたい。」と思ってもらうサポートをすることだと思う。

そのためには良かったプレーを心から褒めたり、

本人は満足して いるけど、気づいていないことをさりげなく教えたり、

練習は厳しくして試合に勝った方が喜びが大きいことをみんなで実感することが大切。

 

大学生活はすごく短い。

だから、何か夢中で打ち込めるものがあるといい。

決して部活にこだわるわけではなくて、サークル、アルバイト、趣味、就 活、友達作り、恋愛、勉強など、何でもいいと思う。

自分が心から本気になれるものがあったら、

そこから得られるものはすごく大きいと思う。 

みんなで何かに挑戦する時、

一番難しいのはみんなのベクトルを同じ方向に向けることだと感じる。

その面で、部活は意識の高い人が集まるから、意志の統一はある程度やりやすい。

そして、全員が本気になると結果も大きく変わってくるし、何より楽しくなる。

名古屋大学ハンドボール部は、少しそんな組織に近 付けたのではないかと思う。 

こんなに長いこと書いたけど、

今大学生活を過ごしている人、部活をしている人、何かに打ち込んでいる人の参考に少しでもなれば嬉しいと思う。

そして、チームを引っ張ることに関して後輩から相談を受けることも多いが、自分にできることがあれば何でも話してほしいと思う。 

そして、部活を通じて沢山の人と繋がることができた。

 

ホントに沢山おごってもらい(10万は余裕で超えてると思う)、ハンドだけではなくて、社会人として大切なことも教えてくれた先輩方。同学年の貴重な仲間。入部してから有り得ないくらい成長していった後輩達。 

みんながいなければインカレに行く、という夢は絶対に達成できなかったし、ここまで本気になれなかったと思います。みんなと部活をした時間は嫌なことも忘れられるくらいめちゃくちゃ楽しかった。 

そして入部してからすごく仲が良くて、雰囲気のことをたくさん教えてくれた大阪大学ハンド部。

九州大学ハンド部。他の旧帝大のみんな。

名大に招待して、観光したりですごく仲良くなったソウル大学のみんな。

東海リーグの他のチームのみんな。沢山の人と友達になれたし、これからも繋がっていたい。 

大学生活で何かに夢中になっている人は、本当に今の時間を大切にしてほしいと思う。

その時にホントに辛かったと思っていても、

後から考えると楽しかったことばかり思い出に残っている。

現役チームも、また1部で戦ってほしいし、心から応援している。

自分は今から就活して社会人になるけど、部活で学んだことをこれから活かせたらいいなって思う。 

最後になりますが、こんなに長い長い文章を読んで下さった方、本当にありがとうございました。 

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こちらで、大学の部活のストーリーは終わりです。

みなさま、いかがでしたでしょうか?

最後までお付き合いいただいた方々、本当にありがとうございました!

高校編はこちら。

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